父 と 子 と 聖霊
父と子と聖霊のみなにおいて とは
父と子と聖霊の御名において ラテン語
読む前の要点: あなたは、頭の中に描きにくい事柄はありますか? (例:一光年の距離、微生物の目から見た世界、さなぎの中で芋虫が蝶になる課程、等) 自分自身という存在は身体だけだと思いますか?それとも自分には魂や霊があると信じますか?なぜですか? 「三位一体」についてどんな風に理解していますか?
父と子と聖霊の御名において
2013年05月25日 (三位一体の主日) 洗礼は古来、「父と子と聖霊のみ名によって」授けられるので、受洗者はそのとき、必ず父と子と聖霊に対する信仰を宣言します。これが「信条」の起こりと言われています。 その洗礼式のための信条を基にしながらも、父と子と聖霊に対する、より明確な表現を用いた信条が、最初の二つの公会議で定められました。ニケア・コンスタンチノープル信条です。ニケア公会議は、「イエスは最高の人間であるが神ではない」という考えを異端として退け、コンスタンチノープル公会議は、「聖霊は被造物であって神ではない」という説をきっぱりと否定しました。 こうして4世紀に確定したニケア・コンスタンチノープル信条は、6世紀ころから次第にミサの中で唱えられるようになり、その習慣は10世紀には全教会に広がったと言われています。現代でも、カトリック教会ではこの信条をミサの第一の信仰宣言としているのです。 関口教会では、四旬節、復活節と唱えてきた、洗礼式に起源を持つといわれる使徒信条に代えて、今日から始まる年間の期間中の主日にはニケア・コンスタンチノープル信条を唱えていきます。その最初の日曜日が三位一体の主日にあたることにも意味を見いだしています。 山本量太郎神父
父と子と聖霊の名において
4, 父と子と聖霊の神に+5. アレルヤ コラール(ソプラノ) BWV51_4, 5 - YouTube
父と子と聖霊とは
前回、仏教の 諸行無常・諸法無我・涅槃寂静【三法印】 についてお話しましたので、今回は、キリスト教の「父と子と聖霊」についてお話したいと思います。 三位一体とかトリニティとか呼ばれているものですね。 三位一体も、三法印も、どちらも、真理についての3つの側面を言い表したものです。 ただ、使われる言葉が違うので、三法印とは、ちょっと違ったお話になると思います。 父とは? 父と子と聖霊とは. 父と子という対比があるので、普通に考えるなら、父というのは、子に先立つものという考え方ができると思います。 父が存在するがゆえに、子も存在するという考え方ですね。 イエスは、自身を子とみなします。 ということは、父が存在するがゆえに、イエスは存在できるというわけですね。 でも、イエスにとって、「父」とは誰なんでしょうか? 聖書によると、イエスには、肉体的な、DNA的な父親というのは、居ないということになっています。 聖母マリアは、聖霊によって身籠ったということになっています。 なので、イエスには、一般的な意味での、父親が居ません。 にも関わらず、イエスは「父」という言葉を使うわけです。 これは、一体、誰のことを指しているんでしょうか? イエスにとって、「父」とは、イエスに気がついている存在です。 イエスの5感覚、思考、感情といったものに、気がついている存在、それが、「父」です。 言ってみれば、それは「意識」とも言えます。 意識が無ければ、イエスと言えど、自身が存在しているということに、気がつくことができないでしょう。 意識があるがゆえに、イエスは、自身が存在しているということに、気がつくことができます。 熟睡中は、イエスも、何にも気づくことができないはずです。 そして、起きることによって、意識が起こり、「私には肉体的な父親は存在しないが、私には父が存在する」と言うことができます。 そして、それは、肉体的な父親を持つ人にとっても、同じことが言えるんじゃないでしょうか? ただ、聖書の中では、イエスは、「父」を「神(真理)」と同一のものとしても語っています。 例えば、イエスはこう言っています。 「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。」 「わたしが父の内におり」というのは、意識としての父のことを言っていますが、「父がわたしの内におられる」というのは、父を、神(真理)という意味で使っています。 父と子と聖霊は、真理の3つの側面なので、父と神(真理)は同一のものと言うこともできるんですね。 子とは?
2015年4月5日時点の オリジナル よりアーカイブ。 2019年6月22日 閲覧。 ^ キリスト教大事典 1973, p. 637. ^ 非カルケドン派の出典: " Syriac Orthodox Church - A Brief Overview ". The Catholic University of America. 2019年6月23日 閲覧。 ^ 正教会 からの出典: " 信仰-信経 ". 2018年7月17日時点の オリジナル よりアーカイブ。 2019年6月22日 閲覧。 ^ ゴンサレス 2010, p. 104. ^ a b c " 信仰-神 ". 2015年9月24日時点の オリジナル よりアーカイブ。 2019年6月23日 閲覧。 ^ カトリック教会のカテキズム #253(日本語版2008年第3刷80頁) カトリック中央協議会 ISBN 978-4877501013 [ 要ページ番号] ^ リチャードソン 1978, p. 71. ^ キリスト教大事典 1977, p. 452. ^ Vladimir Lossky (ウラジーミル・ロースキイ) 2001, p. 37 ^ " Monarchians ". 2019年6月23日 閲覧。 ^ リチャードソン 1978, pp. 65-66. ^ ゴンサレス 2010, p. 251. ^ マッキム 2009, p. 279. ^ バシレイオス 1980, p. 94/139. ^ a b c македонианство, или Духоборчество (Справочник по ересям, сектам и расколам. С. В. Булгаков.. 1913) ^ 園部 1980, p. 355. ^ リチャードソン 1978, p. 59. 父と子と聖霊の御名において. ^ " なにゆえキリストの道なのか(32)聖書を教える"エホバの証人"はキリスト教ではないのか ". クリスチャントゥデイ (2016年3月20日). 2018年1月1日 閲覧。 ^ " 聖霊、私たちを愛へと導く愛 " (日本語). OPUS DEI. 2018年5月28日 閲覧。 ^ " 聖ホセマリアの文章による聖霊への十日間の祈り " (日本語). 2018年5月28日 閲覧。 [ 要ページ番号] 参考文献 [ 編集] イラリオン・アルフェエフ 著、ニコライ高松光一訳『信仰の機密』東京復活大聖堂教会(ニコライ堂) 2004年 X.