武士道 と は 死ぬ こと と 見つけ たり 意味
余命宣告を受けた途端に人生観が変わる人は少なくありません。 死を自覚することは、生を自覚することになります。 死に様とは生き様のことです。 もし、死が残酷で不幸なものでしかないのなら、生は何のためにあるのか分からなくなります。 明日という日がくるかどうか分からないのは、サムライ達も私たちも同じですが、私たちには中々その自覚が持てません。 今、迷っている事、悩んでいる事、不安な事、それはもし余命が分かっていたとしても優先すべきことでしょうか? もし死ぬ気で取り組んだら!?いっそ、もう死んだ気になったら!? 今とは違う決断で、全く違う行動を起こすかもしれません。 まとめ 「一億玉砕」とまで言われた太平洋戦争時、特攻や玉砕、自決の場面において「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉が実際に使われた事が、この言葉のイメージを間違って印象付ける事になりました。 軍国主義教育の中で、武士道の思想は洗脳の道具のように使われ、捻じ曲げられて現代に伝わってしまった部分があり、それが残念でなりません。 今もなお、武士道の教えによって躾や家庭内教育が成り立っている事から考えても、武士道はもっと日常的で身近な存在です。 本来の武士道の意味が一人でも多くの人に伝わって欲しいと願っています。
武士道とは死ぬことと見つけたり【仁王 配信実況プレイ#12】 - Youtube
こんにちは。ついに華の10代として過ごせる最後の年となります令和3年はというと、 これだけは!
「 武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり 」という言葉を聞いたことがある人は多いと思います。これは、佐賀藩士・ 山本常朝 によって口述された武士道書『 葉隠 』の一説です。「いくさをしない武士がどう生きるべきか」が書かれた『葉隠』には、今を生きるわたしたちにとっても「生きていくヒント」が詰まっています。今日は『葉隠』の面白さと有益さの一端をご案内いたしましょう。 『葉隠』全3巻 (岩波文庫) 山本常朝・田代陣基 『葉隠』口述者・山本常朝はどんな人? 山本常朝 『葉隠』を口述したのは、山本常朝という佐賀藩士でした。常朝が生まれたのは、江戸幕府が開かれてから50年以上が経った万治2年(1659)のこと。すでに戦国時代を知らない世代です。 常朝が仕えた藩主は佐賀藩・2代藩主の 鍋島光茂 。常朝は9歳で光茂の小姓となってから、御書物役や書物奉行などをつとめました。今でいうと秘書的な役割で、文書類を主に扱う職務です。 佐賀藩の居城だった佐賀城。 常朝が42歳になった時、光茂が死去しました。常朝は主君の後を追って殉死したいと願いましたが、光茂は殉死を禁じていました。そこで殉死するかわりに出家することを選び、佐賀の山中に草庵を結んだのです。 『葉隠』はどのように生まれたのか? 常朝の隠遁生活が10年を過ぎようとしていた頃、 田代陣基 (たしろつらもと)という佐賀藩士が草庵を訪れます。佐賀藩で祐筆(文書の管理・作成をする職務)として仕えていた陣基でしたが、御役御免となってしまい、失意のまま常朝のところへやってきたのでした。 常朝より20歳年下の陣基は、常朝の話をいろいろと聞くうちに「これは書き留めておかねば」と思ったのでしょう。常朝の語りを記録することになったのです。常朝は語りに語り尽くして、約6年後に全11巻の『葉隠』が完成します。 毒舌のため?『葉隠』は秘本だった! 6年の歳月をかけて完成した『葉隠』ですが、その冒頭には何と「この書はかならず全部焼き捨てよ」とあります。 この始終十一巻は追つて火中すべし。世上の批判、諸士の邪正、推量、風俗等まで、只自分の後学に覚え居られ候を、噺の儘に書き付け候へば、 他見の末にては意恨悪事にもなるべく候間、 堅く火中仕るべき由、 返す返すも御申し候なり。 (『葉隠』冒頭はしがき) 『葉隠』には、藩士の失態や衆道をめぐるいざこざが、常朝の手厳しいコメント付きで記されているため、「他見の末々にては意恨悪事にもなるべく」(誰かに見られると恨みや憎しみのもとになりかねないので)燃やすようにと常朝は陣基に命じたのですが・・・陣基が書き写しておいた写本は、その後さまざまな人の手で書き写されていき、佐賀藩の中で密かに読まれ続けていったのです。 しかし、「火中すべし」の冒頭語があるためか、本の刊行が盛んだった江戸時代においても『葉隠』が刊行されることはなく、明治39年(1906)に初めて活字化されるまで『葉隠』は秘本として知る人ぞ知る書物でした。 常朝が没したのは『葉隠』が完成してから3年後のことでした。燃やすよう命じた『葉隠』が、後代まで読み継がれるとは思いもしなかったことでしょう。 藩祖・鍋島直茂を猛烈リスペクト!