東大寺戒壇院四天王像 持国天
今日も、また猛暑でした。 8月も下旬に入ったと言うのに・・。 豊中市 39. 3℃ 、奈良市 37. 9℃、 京都市 38. 8℃ですって! 東大寺戒壇院四天王像 作者. ※昨日は、 東近江市 で39. 2℃を観測したらしい。 朝の天気予報(気象情報)では、ちょっと降水確率の数字が上がっていて、期待していたんですけど・・。 今のところ、 雨の気配はなし です。 昨夜、 平城京天平祭 で プロジェクションマッピング を見ながら夕涼みしたのですが──。 そのまま、 奈良市内 に留まってしまいました。 (注)野宿したわけではありません! そして、今日(21日)午前中、 奈良公園 を散策しました。 行き先について、いろいろ迷いましたが──。 興福寺 or 元興寺 &ならまち or 東大寺 or それとももっと遠く・・。 或いは、その全部・・。 そして──。 熱中症のことも考え、ゆっくりと 東大寺 を歩いてみることにしました。 もっとも「王道」です! たぶん、30℃はすでに突破していて、歩いたら汗だく👕💦になっていました。 でも、少しは標高が高く、木々が多くて、さらに ディアライン のために風通しもよく、心地良かったです。 まずは、 二月堂 にて、 観音さま (十一面観音)にお詣りです。 何かね。ここは、いつ来ても、聖地と言う感じがする場所です。 大仏殿 の屋根越しに、 奈良盆地 そして 生駒山 を見渡して──。 あっ、これはあくまでも"横道に逸れる話"ですが、今、 『3D地図でわかる 日本列島地形図鑑』 (成美堂出版)を買って読んでいる最中でして、その中で 奈良盆地の地形 も解説されているのです。 そんな訳で、この舞台で、いろんなことを考えながらゆっくりできたこともありまして──。 昨夜の 平城宮跡 からここ( 二月堂)まで、幾つかの「逆断層による高低差(断層崖)」を感じてきたなあ」などと・・。 地学関連で、実はもう1冊並行して読んでいる本もあります。 また、機会を見つけて《読書の記録》として紹介したいと思います。 "仏像ファン"としては、 法華堂 の堂内で、ゆっくり心を落ち着けようと考えました。 正解でした!──ほとんどの時間、貸し切り状態で! ご本尊· 不空羂索観音立像 、 梵天・帝釈天像 、 金剛力士像 、 四天王像 。 空気感と言いますか、奈良時代の仏像群(脱活乾漆像群)を前にすると、厳かな気分になります。 〈東大寺 内で奈良時代から残る貴重なお堂の中に居られるんです。〉 〈八角形の壇上とその回りにおいでの仏像は、おそらく1270~1280年前に造られた、大仏さまよりも前の 東大寺 の歴史を語る貴重な仏像なんです。〉 〈どうやって造ったかと言うと、麻布を漆で張り重ね、漆と木粉を盛り上げたんです。〉 ──などと、居合わせた拝観者の方とお話したりしながら・・。 あっ、たまたまです。 決して、相手が女性グループだから話し掛けたわけではありません。 私の名誉のために言っておきますが、 やましい気持ちはありません 。 先日、京都市役所前のバス停付近で、「坂本龍馬最期の場所(近江屋)」を道案内したついでに、坂本龍馬の常宿(酢屋)や旧土佐藩邸後、旧長州藩邸跡、高瀬川の歴史等を案内させていただいた方は、中年男性でした。 訪ねられたら答える、困ってそうな方にはそのことを聞いた上でお話する──と言うスタンスは、守ってます・・が・・。 何か言うほど、"やましい気持ち"が 透けて見えます が!
東大寺戒壇院四天王像 制作方法
日本史についての質問なのですが、 東大寺戒壇院四天王像と東大寺戒壇堂四天王像って なにか違いがあるのでしょうか? 院と堂の文字が違うだけでしょうか? どなたか教えていただけると嬉しいです。 "東大寺戒壇院四天王像と東大寺戒壇堂四天王像"は、どちらも同じです。 ・・・ただコレまでに、研究者でその違いに触れた文章を、読んだ記憶はありません。 奈良時代史をやる人間や教科書では"戒壇院"を普通使い、どうも東大寺のお寺サンは、"戒壇堂"を使うようです。 ソコで、"院と堂"の違いですね。 "院"とは、もともと"巡らされた垣根"で、そこから派生した"高い垣根で囲まれた一角"、&"垣根で囲まれた建物"を指す文字。 ですから"戒壇院"は、東大寺の一角にある、"垣根"を巡らされた特別区域の、"戒壇(僧尼を受戒させる:正式に得度させる)という施設"という捉え方。 それに対して"戒壇堂"というのは、東大寺の七堂伽藍の中の、仏を祀る諸堂の一つという捉え方ですね。 つまり"堂"は、東大寺が戒壇院を、"宗教的施設としてのお堂"として捉えているために使ってきた名称だと思います。 こんなんでどうですか(^^)/ ID非公開 さん 質問者 2021/1/27 21:38 物凄い知識をお持ちなのですね! 東大寺大仏と鹿 – 定年男子のランとマネー. 圧倒されました! 詳細にわかりやすくご教授いただきありがとうございました! ThanksImg 質問者からのお礼コメント 物凄い知識をお持ちなのですね! 詳細にわかりやすくご教授いただきありがとうございました! お礼日時: 1/27 21:38
東大寺戒壇院四天王像 持国天
0センチ、弁才天219. 0センチ。 もと法華堂(三月堂)に安置されていた2体の塑像。もとは本尊不空羂索観音像の斜め後方の左右に、厨子に納めた状態で安置されていたが(東が弁才天、西が吉祥天) [73] 、2011年の東大寺ミュージアム開館後はそちらへ移された。この2像は天暦8年(954年)に焼失した東大寺吉祥院から法華堂に移されたものとするのが定説である [73] 。弁才天像は後世しばしば作られた琵琶を持つ坐像ではなく、『金光明最勝王経』に説くところの八臂の立像である。吉祥天、弁才天ともに保存状態が悪く、特に弁才天像は面相部の塑土が剥落するなど破損が甚だしかったが、1993年から1995年にかけて、美術院国宝修理所の松永忠興が中心となって実施した解体修理で当初の像容を取り戻している [74] 。 木造不動明王二童子像 重要文化財。南北朝時代。像高不動明王86. 5センチ、矜羯羅童子(こんがらどうじ)78. ≪ 奈良たび ≫ 世界遺産 「 東大寺 」 歴史・仏像・建築のすべて 大仏殿・戒壇堂・三月堂の入堂イヤホン解説 と 境内ぐるり散歩へ♪ – オウンドメディア. 0センチ、制多迦童子(せいたかどうじ)88. 7センチ。 もと法華堂に安置されていた像。法華堂内陣の東南、梵天像の手前に安置されていたが、2011年の東大寺ミュージアム開館後はそちらへ移された。左脚を踏み下げて坐す不動明王像の左右に矜羯羅童子、制多迦童子を配した三尊像である。ヒノキ材の寄木造で玉眼を嵌入する。像表面は胡粉地に彩色を施すが、現状では剥落して素地を表す部分が多い。胸飾、腕釧、臂釧、足釧は銅製のものを取り付けている。曲線を多用する衣文表現に時代の特色が表れている。制多迦童子像の足枘銘から、本一具は応安6年(1373年)の制作で、像内に舎利3粒と結縁交名帳を納入したこと、絵仏師は法橋清玄であることがわかるが、木仏師の名は足枘銘からはわからない。木仏師は作風から高天仏師(たかまぶっし)の高天円源(賢)かと推定されている。本像は近世末まで法華堂で行われていた当行(千日不断花供)の本尊の一つであった。当行とは、千日間、花を供え続ける行法である [75] 。 木造地蔵菩薩坐像 重要文化財。鎌倉時代。像高84. 3センチ。 もと法華堂に安置されていた地蔵像。法華堂内陣の西南、帝釈天像の手前に安置されていたが、2011年の東大寺ミュージアム開館後はそちらへ移された。右手に錫杖、左手に宝珠を持つ通常の地蔵像である。ヒノキ材の寄木造で、前後に2材を矧ぎ、内刳を行い、玉眼を嵌入する。表面は布張り、漆下地に彩色とするが、これらは大部分剥落している [76] 。 木造天蓋 重要文化財。奈良時代および鎌倉時代。寸法(最大径)は中天蓋169.
東大寺戒壇院四天王像 作者
天部の仏と聞いて、真っ先に浮かぶのは四天王じゃないでしょうか?
厚い雲にさえぎられ太陽は顔を見せないが、雨も降らず朝の20. 0℃から26.