『関ヶ原の戦い』何もかもを変えたのはやはり裏切りだった! | エイ出版社
『関ヶ原の戦い』とは? 勃発の背景は? 関ヶ原の場所は?
- 槍・弓・鉄砲の比率は? 『関ヶ原の戦い』における戦闘法 | エイ出版社
- 関ヶ原の戦いと江戸幕府「関ヶ原の戦いの図を読み取る(染谷幸二氏追試)」 | TOSSランド
- 関ヶ原の場所は何県?現在はどうなっている? | Shirabel Blog
- 【刀剣ワールド】関ヶ原の戦いにおける東軍・西軍の武将一覧
槍・弓・鉄砲の比率は? 『関ヶ原の戦い』における戦闘法 | エイ出版社
関ヶ原の戦いで東軍が勝った3つの理由って? 関ヶ原の戦いが起こった当初、西軍と東軍の兵力はほぼ同じでした。 では、この戦いで 東軍が勝ったのはなぜ なのでしょうか。 ここでは、有名な3つの説を簡単に見てみましょう。 その1. 小早川秀秋が裏切ったため はじめは西軍にいた 小早川秀秋 ですが、実はは東軍に内通していました。 15000名の兵力を率いて西軍の要である大谷吉継隊に襲いかかった秀秋の裏切りによって、西軍に所属していた4000名の武将たちも同時に裏切りました。約20000名もの寝返りによって大谷吉継の部隊は壊滅し、結果として東軍が有利な状況になりました。 ちなみに、以下の記事では 小早川秀秋が裏切った理由について解説 しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。 ※参照: 小早川秀秋の関ヶ原での裏切りの真相。陣取った松尾山とは? 槍・弓・鉄砲の比率は? 『関ヶ原の戦い』における戦闘法 | エイ出版社. その2. 毛利家が動かなかったため 西軍の85000名のうち、約3分の1にあたる兵力を 毛利家 が率いていました。 しかし、毛利家は一族の吉川広家(きっかわ ひろいえ)が東軍に内通していて、広家の策略によって他の毛利家の兵力は戦いに参加する事はできませんでした。 西軍の兵力は85, 000名と言われてますが、毛利家や小早川秀秋などのの裏切りを含めると、その兵力は東軍の2分の1ほどだったんですよね。 この戦いは、はじめから東軍が有利だったと言ってもいいのかもしれません。 ※参照: 関ヶ原の戦いの裏切りとその理由。東軍から西軍に裏切った武将とは? その3. 三成と家康の人気や実力の差 また、東軍と西軍の中心人物である 徳川家康と石田三成 は、人気、実力とともに家康の方が上回っていました。 この時、 徳川家康 は関東地方のほとんどを領地としていたのに対し、石田三成が治めていたのは滋賀県の一部に過ぎませんでした。そのため、この2人が動かせた兵力には大きな差があったんですよね。 また、 石田三成 は戦いよりも政治の方が得意な人物でした。そのため、加藤清正や福島正則といった数々の戦いで活躍した武将とは相性が合わなかったんですよね。 清正や正則は、石田三成の事が嫌いなあまり三成を殺そうとした事もあるほどで、関ヶ原の戦いでは東軍について活躍しました。 スポンサードリンク このように、西軍の内部は裏切りや傍観などの分裂が生じていたということですね。 ここに付け入った東軍が結果として勝利を手にすることができたのです。 関ヶ原の戦いのその後はどうなったの?
関ヶ原の戦いと江戸幕府「関ヶ原の戦いの図を読み取る(染谷幸二氏追試)」 | Tossランド
エンタメ 2019. 10. 21 2019. 23 10月21日は関ヶ原の戦いが始まった日とされています。(1600年旧暦では9月15日) 天下分け目の関ヶ原はどのようなものだったのか、ここでは簡単にわかりやすくまとめています。 また関ヶ原の場所は今の何県なのか?関ヶ原の現在はどうなっているのかもまとめています。 関ヶ原の戦いとは?わかりやすく解説! 関ヶ原の戦いとは、日本中の武将を巻き込んだ日本史最大の合戦です。今もドラマや映画、ゲームなどの題材となっており、今も日本人を魅力する歴史の1つといえます。 関ヶ原の戦いの発端 関ヶ原の戦いの発端は、日本統一をなしとげた豊臣秀吉亡き後に誰が跡を継ぐのかモメたのが始まりです。 秀吉の遺言書「太閤様御置目」に沿って物ごとを進めようとする石田三成と、それに反対し新しい世の中を作ろうとした徳川家康の戦いが発端です。※諸説あります。 関ヶ原の戦いの東軍 徳川家康 徳川家忠 本多忠勝 池田輝政 結城秀康 黒田長政 細川忠興 福島正則 関ヶ原の戦いの西軍 石田三成 島左近 毛利輝元 宇喜多秀家 上杉景勝 真田幸村 大谷吉継 長宗我部元親 (小早川秀秋) 関ヶ原の戦いの勝敗は? 関ヶ原の戦いの勝敗は徳川家康側の東軍が勝利となりました。 ここから徳川家康が治める「江戸時代」が始まり役280年に渡る平和な時代が訪れるのです。 約16万人が参加した関ヶ原の戦いですが、結局当日になって参加しなかった武将や、現場に間に合わなかった武将などもおり、いまだに正確な人数や布陣についても不明な点が多いです。 ※諸説あり 小早川秀秋は本当に裏切り者だったのか? 関ヶ原の戦いと江戸幕府「関ヶ原の戦いの図を読み取る(染谷幸二氏追試)」 | TOSSランド. 石田三成率いる西軍は圧倒的有利だったにも関わらず負けたのは、関ヶ原当日の小早川秀秋の裏切りによるものが大きいと言われていますね。 当時、小早川秀秋は若干18歳。徳川家康に脅され陣に銃を打ち込まれ慌てて寝返ったというのがドラマや映画でよく描かれていますね。 関ヶ原の戦いの後、小早川秀秋は憔悴し酒に溺れ1602年には亡くなっています。当時は西軍の大谷吉継の霊に取り憑かれ殺されたと言われたそうです。 関ヶ原は現在どのようになっている? 関ヶ原はどこにあり、現在はどのようになっているのでしょうか? 関ヶ原の場所は岐阜県にある! 関ヶ原古戦場跡は 岐阜県不破郡関ケ原町 にあります。 出典… ぎふ観光マップ 関ヶ原の戦いは広い範囲で同時に行われたので、細かいポイントをあげればキリがありませんが、 岐阜県不破郡関ケ原町 に「関ヶ原古戦場跡」の記念碑があり、ここを中心に各武将たちの陣の跡を巡ることができます。 関ヶ原古戦場跡は現在は観光地として整備されている!
関ヶ原の場所は何県?現在はどうなっている? | Shirabel Blog
戦地では「使番」が活躍 関ケ原の戦いは数万の大兵力同士の戦いだった。自軍同士で連絡を取り合うことも困難で、情報のやり取りは最重要事項だった。「使番」と呼ばれる伝令役が馬に乗って戦場を駆け巡ったのだ。徳川家康の使番は「伍」の旗を指しているのが目印だ。 では、関ヶ原での戦闘はどうだったのか? 陣を構築している西軍側は、柵を利用して鉄砲や弓の準備をし、応戦することが可能だった。だが、兵士が接近してしまうと、そのような余裕もなく、長槍を中心とした接近戦となったはずだ。 戦闘法は、基本的に戦国後期と変わらない。ただし、戦国期は鉄砲と弓同数に対して槍の割合が高く、江戸時代になると、鉄砲と槍が逆転する傾向がある。その中間点だった関ケ原の戦いは、槍・弓・鉄砲の3者均等くらいのイメージになるのだ。 いかがだろうか? 天下分け目の戦いと言われる関ヶ原の戦いはまさに戦国期の終焉を告げるものだったと言える。鉄砲の伝来で戦闘法は大きく変わったが、古来からの槍や弓も使われる、まさに新旧の武器が入り混じった戦いの集大成ともいえるのだ。 ●小和田 泰経(監修) 1972年東京都生まれ。歴史研究家、静岡英和学院大学講師。NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』に資料提供として参加。TV出演も多数。 (出典: 『図解 関ヶ原合戦』 、監修:小和田 泰経、CGイラスト:成瀬 京司、イラスト:あさい らんこ、カワチ レン) (ヤマダタケシ)
【刀剣ワールド】関ヶ原の戦いにおける東軍・西軍の武将一覧
^ 跡部信「高台院と豊臣家」『大阪城天守閣紀要』第34号、2006年。 ^ 本多博之「豊臣政権下の筑前」『西南地域史研究』第11号、1996年。 ^ 渡邊大門「関ヶ原合戦における小早川秀秋の動向」『政治経済史学』599・600号、2016年。 ^ " 関ケ原古戦場の整備 ". 岐阜県庁. 2017年9月1日 閲覧。 ^ プレイライフ編集部 (24 September 2020). "【関ケ原の戦いが1分でわかる】一度見れば絶対に忘れない!大人は説明できないと恥ずかしい?? ". プレイライフ. 2020年9月27日閲覧 。 ^ ワーテルローと関ケ原、「姉妹古戦場」に 『 日本経済新聞 』夕刊2017年9月1日 関ヶ原の戦いと同じ種類の言葉 固有名詞の分類 関ヶ原の戦いのページへのリンク
慶長5年9月15日は関ヶ原の戦いのあった日。今回は、"関ヶ原の戦い"ってなんとなく知っているけど、詳しくはよく分からない…という方のために、小和田泰経先生に「関ヶ原の戦い」がなぜ起こったのか、解説していただきます!
「友人、部下、同僚」こんな人物は要注意! 山岸 良二: 歴史家・昭和女子大学講師・東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師 2016/10/20 8:00 今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。 勝敗を左右した「裏切り」とは? Q1. 「関ヶ原の戦い」はいつどこで行われたのですか? 戦いが行われたのは、1600(慶長5)年9月15日です。ただし、この日付は「旧暦」で、いまの「西暦」に直すと秋本番の10月21日です。 現在も東海道新幹線や名神高速道路などが走る「関ヶ原」は、岐阜県と滋賀県の県境に近く、北国街道、中山道、伊勢街道など主要街道が交わり「関所」が置かれるなど、古くから交通の要衝でした。 「関ヶ原」の地名は、この「関所」に由来します。 Q2. 誰と誰が戦ったのですか? それぞれの主導者は、東軍「徳川家康」、西軍「石田三成」です。 「東軍」は、主に東国の大名を中心に、豊臣秀吉の子飼い福島正則や黒田長政なども含む総勢7万4000。 一方の「西軍」は、西国の大名が中心で、宇喜多秀家、小西行長、小早川秀秋など総勢8万2000。ちなみに西軍の「名目上」の総大将は、石田三成ではなく毛利輝元(てるもと)です。 Q3. 「戦いの原因」を教えてください 原因は、「豊臣秀吉亡き後の政治の主導権争い」です。 彼の息子、豊臣秀頼(ひでより)はまだ幼く、本来であれば徳川家康ら有力大名と石田三成ら優秀な文官との「合議」により政権運営が行われるはずでした。しかし、徳川家康はこれらのルールを無視し、次第に台頭していきます。 その結果、「徳川家康に追随する大名」と「反感を募らせる石田三成のような大名」との間で亀裂が深まり、これがやがて「関ヶ原の戦い」へと発展します。 Q4. どのように決着がついたのですか? 戦いは、わずか半日で勝負がつきました。 開戦時、東西両軍の兵力差はさほどなく、東軍を包囲するように布陣した西軍が有利な状況でした。 しかし、戦闘に加わらない西軍大名が多く、戦況はしばらく拮抗します。やがて、家康の鼓舞に東軍がやや勢いを増すと、これを見た小早川秀秋はじめ西軍の一角が東軍に寝返り、この結果、石田三成ら西軍はなすすべなく敗走しました。 Q5. 裏切り者の「動機」は何だったのですか? そこには、大きく分けて「5つの動機」が存在します。