大学 と 高校 の 偏差 値 の 違い, これからの「正義」の話をしよう を読んだが、分からない。オメラスから去った人はどこにいく - 前略、ヨッタさんへ
3 bfox 回答日時: 2016/03/02 15:16 そりゃ違うよ。 偏差値のメカニズムを考えれば当然でしょ。 だって高校受験ってけっこうバカな奴らも受験するだろ? 偏差値ってのは母集団で変わるわけよ。 大学受験となればピンからキリまであるとはいえ、大学を受けようって学力の人達が模試を受けるわけ。 「俺頭悪いから大学行けないし、働こうかな」って奴は模試だって受けないんだから、当然下の点数の人が減るわけ。 そうなると、高校受験での下の下や下の中の人たちがいなくなって、下の上(例えば偏差値40の人)だった人達が最低ラインの偏差値30あたりになるわけよ。 >高校受験前の偏差値は63~8程度です。 こうこう1年生で模試を受けたら53~55くらいじゃないかな。 なぜなら、高校1年から模試を受ける奴ってのは、気合入って1年生から本気で大学受験に向けて勉強しようってやつくらいだから。 そうなるとさっき言ったみたいに母集団のレベルが上がるから、高い偏差値を取るのが難しくなる。 これが高校2年生中盤から後半くらいになると、勉強あんまできない奴もみんなが受験モードになって模試を受けだすから、少し偏差値が上がると思う。 3 No.
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高校 と 大学 の 偏差 値 の 違い
///////////////////////////////////////////////////// あ、受ける大学によっては、英検も かなーーーーり有利 になるから、今のうちに 英検2級以上 とりましょうww 直前になってから勉強しても、 入試の勉強と、英検の勉強では中身が全く違います !! 国立いくのか私立にいくのかによっても、対策かわってきますから。 /////////////////////////////////////////////////////// 本人は現役だから、色々説明は受けていると思うけれど、 子供とあまりコミュニケーションが取れていない場合要注意 です。 特に 親は何をしなければいけないか というと・・・ 入試代+交通費+遠方ならホテル代 入学金+初年度学費(大体2回に分けて払う) これらをほぼ一括でどどんと支払わなければいけないのです (※塾や予備校の金額含まず) いくら子供が小さいうちから貯めておけばいいやんと思っても、人生そう簡単にうまくは行きません。 よほどの 倹約家 でないと、厳しいと思います。 子供が受験をするまで何年あるでしょうか?その間に病気になったり、仕事がなくなったり、様々なアクシデントが人生にはあります。 あって普通のことです。 あ、 教育ローンなどをお考えの方はもっと前から準備が必要 ですね。 祖父母からの援助があればまた変わってきますが、なかなかそうもいかないですしね また、 私大の中でも入学金や学費が安め、または安い大学 もあります。去年に比べても、今年は入学金を抑えてくれている大学もあります。 次回は、そのあたりの記事もかいてみようとおもいます。 そんな感じでまた来世☆彡
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4 toshiki78 回答日時: 2005/04/30 16:10 63,4の大学には 恐らくあなたの高校のトップの人がやっとは入れるくらいです。 まず、母集団が全然違います。 高校の進学率はほぼ100%ですが、大学になればずっと下がります。 学力と大学進学率は同じ物ではありませんがこなり相関性があります。 ようは偏差値が高い高校ほど大学進学率が高い。 高校受験の時に偏差値が63,4なら大学受験時には55程度です。 ま、少子化で浪人生が減るから少し上がるしょうけど60は超えないと思います。 大学受験で偏差値65と言うのは東大、京大、医学部を除いたらほとんどの大学、学部に受かるくらいです。 偏差値65の大学なら高校受験時に70は必要でしょう。 ある高校の平均の学生が偏差値65の大学に入る高校など皆無でしょう。 ま、高校受験時の偏差値がどこのデータか分からないのでなんとも言えませんが、それなりの母集団であるなら先程述べたようになります。 ちなみに大学受験時の偏差値は一番模試の受験者が多いであろう河合塾を念頭にしています。 26 No. 3 tyuuta 回答日時: 2005/04/30 14:43 高校の偏差値と大学の偏差値は比べられるものではありません。 偏差値は受験した人数(母集団)やその学校を受けた人の平均点などによって全然違うものになるので、あくまで目安にしかなりませんし、偏差値で一喜一憂するのは意味の無いことです。大学の方が受験人数も多いですし、偏差値にしても予備校によってまちまちだったりしますので。 偏差値がどれくらい必要かを考えるより志望校に合格する為に最低限必要な合格点を知ることの方が重要です。 No. 2 mermaid2004 回答日時: 2005/04/30 14:10 ● 偏差値=(貴方の得点ー受験者の平均)÷受験者の標準偏差*10+50 ● 高校と大学などの関係はありませんが、偏差値は試験の結果であり、貴方の苦手なテストでは偏差値が下がり、得意であれば上がります。 まとめ 65の学校を受験するのであれば、余裕を考慮すると70程度必要ではと思います。 13 No. 1 ymmasayan 回答日時: 2005/04/30 14:01 高校入試の偏差値と大学入試の偏差値は全く別物と考えてください。 1.高校はたかだか市単位の話、大学は全国でしかも大学別の話 2.高校でどれだけ勉強したかが大学入試の偏差値に強く反映されます。 15 お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!
俺は分かったんだ。 理想郷をぶち壊し、偽りの秩序を乱すのが、俺の使命だってことにな。 まぁ、簡単に言うと大多数の幸福を維持する為だったら、1人の人間の犠牲を黙認してもよいのかということなんですが、 現実社会にも当てはまり、例を出せばキリが無いほどですので、この「オメラス」が後から効いてきて、学生の頃 ある犠牲のもとに幸福があった時、それを承知で享受するのは悍ましい心だと教えられた事を思い出しました。 でもまぁ だからと言って私にはどうする事も出来ないんですけど というか私なんていつ地下室側に行くか分からないし。 歩み去ることさせ出来ませんから。
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自己実現 2018年5月15日 「ある小説にオメラスという理想郷が出てくる…」 TBSとWOWOWの共同制作で放送された日本の刑事ドラマ。「MOZU(もず)」の第1シーズンで悪役・東(長谷川博己)が言った話で、この番組のおかげで、その小説が中古本で数万円になったことがあります。 「オメラスという理想郷を知っているか? オメラス(理想郷)の全ての幸せや美しい自然は その子の犠牲の上に保たれていると 皆が理解していた たったひとりの子供を地下室に閉じ込めておくことで 他の人々が幸せに暮らせるならと 住人達は見て見ぬふりをしているんだ 同じだろ?今のこの世の中とオメラスは 国家という最盛を維持するために 臭いものに蓋をする そして子供を閉じ込めた地下室の門番 それが公安なんだよ」 その「ある小説」とはゲド戦記の原作者でもある「ル=グウィン」の『風の十二方位』のことだった。これは短編集なのだが、その中に「オメラスから歩み去る人々」というのが収録されている。一時話題になった『これから正義の話をしよう』の中で引用されていた話だ。 第2シーズンで東はさらにこう話した。 実はあの話には続きがあるんだ オメラスの人々はあるタイミングで 地下牢の悲惨な子供の全てを知り その事実にショックを受ける 子供を助けてやりたい だが何千何万の人の幸福を投げ捨てていいのだろうか? 「#オメラスから歩み去る人々」の新着タグ記事一覧|note ――つくる、つながる、とどける。. オメラスに住む人々の幸せと 地下牢の子供の一人の幸せを天秤にかけ 次第に事実を受け入れ、彼らの涙も乾いていく… だがその中には黙り込んでふさぎこんでしまう人間もいた 彼ら少数派の人々は 一人で美しい門を出をくぐって、オメラスの都の外に出て行く そして二度とオメラスに戻ることはない 倉木、 門を出てオメラスを見た時、いったい何を思うと思う? 俺はわかったんだ…理想郷をぶち壊し 偽りの秩序を乱すのが俺の使命だってことにな。 あなたなら、子どもを助けますか?そこから去りますか?それとも? 理想郷とは 過去のユートピア文学で表現されてきた「理想郷」にしばしば共通する特徴を挙げる。( Wikipediaより) 周囲の大陸と隔絶した孤島である。 科学と土木によってその自然は無害かつ幾何学的に改造され、幾何学的に建設された城塞都市が中心となる。 生活は理性により厳格に律せられ、質素で規則的で一糸乱れぬ画一的な社会である。ふしだらで豪奢な要素は徹底的にそぎ落とされている。住民の一日のスケジュールは労働・食事・睡眠の時刻などが厳密に決められている。長時間労働はせず、余った時間を科学や芸術のために使う。 人間は機能・職能で分類される。個々人の立場は男女も含め完全に平等だが、同時に個性はない。なお、一般市民の下に奴隷や囚人を想定し、困難で危険な仕事をさせている場合がある。 物理的にも社会的にも衛生的な場所である。黴菌などは駆除され、社会のあらゆるところに監視の目がいきわたり犯罪の起こる余地はない。 変更すべきところがもはやない理想社会が完成したので、歴史は止まってしまっている(ユートピアは、ユークロニア(時間のない国)でもある)。 あなたにとっての理想郷とは、どんなところですか?
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クラヴィスの相棒のウィリアムズの言葉が個人的には印象的です。 「この世界がどんなにくそったれかなんて、彼女は知らなくていい。この世界が地獄の上に浮かんでいるなんて、赤ん坊は知らないで大人になればいい。俺は俺の世界を守る。そうとも、ハラペーニョ・ピザを注文して認証で受け取る世界を守るとも。油っぽいビッグマックを食いきれなくて、ゴミ箱に捨てる世界を守るとも」 オメラスがどういう仕組みで繁栄をしているかを知ったうえで、どう行動するのか?どういう選択をするのか? 理解した上でどう行動するか? どの選択が「正しい」「正義」であるということを考えると…難しいなと思います。虐殺器官に登場する人物それぞれが、それぞれの思考、行動、意思決定をしてどうなっていくのか。 機械的に感情調整され、痛覚マスキングされた兵士たちの…と考えていくと連想は、クリスチャン・ベール主演の「リベリオン」に連想が広がり…。 自由連想は、はてしなく続いていくので、ここで終了。 「虐殺器官」や「リベリオン」については、また機会に言語化できたらと思います。 最後まで読んでいただきありがとうございます。 今日もよい一日を。 それでは、また。
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[3] 人物 [ 編集] 能力主義においては、「われわれはどれほど頑張ったとしても、自分だけの力で身を立て、生きているのではないこと。才能を認めてくれる社会に生まれたのは幸運のおかげで、自分の手柄ではないことを認めなくてはならない。」と結論付けている。 [4] 著書 [ 編集] 単著 [ 編集] Liberalism and the Limits of Justice, Cambridge: Cambridge University Press, 1982, 2nd ed., 1998. 私もオメラスの住人: 45net. ISBN 0521562988 『自由主義と正義の限界』( 菊池理夫 訳、 三嶺書房 、1992年/第2版、1999年、 ISBN 4882941163 ) 『リベラリズムと正義の限界』(改訂改題、 勁草書房 、2009年、 ISBN 4326101881 ) Democracy's Discontent: America in Search of a Public Philosophy, Cambridge: Belknap Press of Harvard University Press, 1996. ISBN 0674197445 『民主政の不満: 公共哲学を求めるアメリカ〈上〉手続き的共和国の憲法』(勁草書房、2010年。 ISBN 4326101962 ) 『民主政の不満: 公共哲学を求めるアメリカ〈下〉手続き的共和国の憲法』(勁草書房、2011年。 ISBN 4326101970 ) ( 金原恭子 ・ 小林正弥 監訳/ 千葉大学 人文社会科学研究科公共哲学センター 訳、勁草書房、2010-11年) Public Philosophy: Essays on Morality in Politics, Cambridge: Harvard University Press, 2005. ISBN 0674019288 『公共哲学: 政治における道徳を考える』( 鬼澤忍 訳、 筑摩書房 (ちくま学芸文庫)、2011年6月、 ISBN 4480093877 /) The Case against Perfection: Ethics in the Age of Genetic Engineering, Cambridge: Belknap Press of Harvard University Press, 2007.
作者を知らない人が、U・K・ル・グィンのペンネームだけで読むと、女性作家の書いたSFとは思わないでしょう。作品の雰囲気も、これまでに読んだル・グィンとはだいぶ違う。普通のSFみたい。 帝国よりも大きくゆるやかに(1971) 惑星探査の物語であり、サスペンスもあるためサクサク読めますが、クライマックスになって急に訳が分からなくなるのは、通常の冒険物語と思って読んでいたためかもしれません。作者の解説では、行動の物語ではなく、心理の物語だと書かれています。ある意味では疎外といじめの物語なのかもしれません。 地底の星(1974) 『天空の城ラピュタ』に出てくるポム爺さんの話。バリントン・J・ベイリーのとんでもSFみたいですが、彼のように強引なSF展開もないまま語られる物語は、すでにSFとは言えず、作者本人も言うように"心の神話(サイコミス)"でしかありません。作者は単なる寓話ではないと言います。評者はそれ以上の意味は読み取れませんでしたが、印象に残る話ではあります。つらい話ですが嫌いではありません。「マスターズ(1963)」の発展形かな? オメラスから歩み去る人々(1973) 本篇はヒューゴー賞を受賞していますが、受賞はSF性とはあまり関係ないように思います。あえてSF性を問うなら、思弁性か、それとも風刺文学としてのSFということなのでしょうか? 本篇も"心の神話(サイコミス)"だと書かれていますが、その中では分かり易かった。 革命前夜(1974) 純粋な革命指導者の老後の等身大の姿というところでしょうか。40年以上手を付けかねていた『所有せざる人々』を読んでもいいなという気になってきました・・・。