君 の 名 は 感動 シーン
つまり、主人公は「三葉」や「二人」ではダメなのか? もしこの物語の目的が「会う」だけならば、それでも成立したかもしれません。むしろ最初に達成しようとした目的はそれでしょう。 しかし、途中で「彗星から救う」という別の大きな目的が判明します。そしてこのことを最初に知り、救うための行動を起こしていくのは、三葉ではなく瀧の方です。ここで「瀧(主人公)→三葉(目的の対象)」という構図がハッキリし、瀧が主人公であるといえるでしょう。 (ちなみにデジタル放送の字幕を見ると、黄色=主人公になっているのは瀧のセリフです) では、「彗星から救う」のと「会う」のとでは、どちらが主目的なのか?
君の名は感動シーン #1528636747|ゲスト|Gifmagazine
ざっくりまとめると、 ・物語の基本構造は 「誰が」「何を」「どうする」 ・ドラマ(感動するところ)は 「障害」を乗り越える「過程」にある ・瀧が三葉を好きな描写が一切無かったことが問題(好きであること自体は問題じゃない) ・材料(伏線)を観客の中に求めてはいけない こんな感じでしょうか。 こういった物語の構造などを踏まえて鑑賞すると、話の見え方が変わってくると思います。 書く人も、見る人も、「なんとなく」ではない、本物の感動を与え、味わうことができるようになると、世界が少し豊かになるかもしれません。 最後までお読みいただき、ありがとうございました。 【追記】 「三葉の手に触れて、瀧は急に気持ちが溢れてきてあの言葉を書いた」? 笑わせるな。 だとしたら、その手に触れたときの瀧の表情を印象的に描写しないとそれは伝わらないと思います。私の記憶では、特にそういった心の動きもなく書いていたように見えました。 だって奥寺さんとのデートであんな調子だった瀧が、クールにそんなことできるわけないじゃん。仮に女慣れした人でも、「急に気持ちが溢れてき」たのなら、絶対に何かしら顔に出るはず。 これは、ただの言い訳です。ぼくは認めない。
!」 そして尋ねる二人「君(あなた)の名はーーーーーーーーーー」(今時そんな風に名前聞く人おるかいな) そういえばこの階段って、ラストで二人が出会えたところなんでしょうか。そうだったら憎い演出だ……!!