長谷川 等伯 松林 図 屏風
『松林図屏風』(六曲一双、東京国立博物館蔵)の左隻は第3扇と第4扇の間で紙継ぎがずれている?
長谷川等伯 松林図屏風 京都
)に、長谷川派内で表装されたことが明らかとなった。また、派内で押印した場合、当然正印が用いられるはずであるから、以前から指摘されていた偽印説は裏付けを得たことになる。 脚注 [ 編集] ^ " 松林図屏風 ". e国宝. E国宝 - 松林図屏風. 国立文化財機構. 2016年4月14日 閲覧。 ^ 茶人 。水落宗恵。 河内 の 平野 出身とも言われるので、 徽宗 の鴨絵の所持者平野宗恵と同一人物と思われる。宗恵の子 紹二 は 千利休 の三女の婿ともいわれるが、近年では『江岑夏書』の記述から紹二は利休の弟、宗巴の子とする説が有力。 ^ 室町時代 の『 君台観左右帳記 』が宝物を等級分けしていたのに対し、桃山時代になると 茶の湯 の世界で美術品について、媚びぬ絵、ひややかなる絵、さわがしき絵、ぬるき壷、といった評語が現れ鑑賞の深まりを見せる。なお『 天王寺屋茶会記 』には、宗恵が持っていた徽宗の鴨の絵を「しずかなる絵」と評した語がある。 参考資料 [ 編集] 展覧会図録 『没後400年 長谷川等伯』 東京国立博物館 2-3月 京都国立博物館 4-5月、2010年 『国宝・松林図屏風: 開館10周年・新七尾市誕生記念』 石川県七尾美術館 、2005年 『国宝松林図屏風展: 開館三十五周年記念長谷川等伯』 出光美術館 、2002年。図録収録の郡司亜也子「松林図の特質と位置 ─研究史を中心に─」は、これまでの松林図研究の文献とその要点がまとめられており貴重。 関連項目 [ 編集] 長谷川等伯 外部リンク [ 編集] 東京国立博物館所蔵『松林図屏風』 - e国宝 紙本墨画松林図〈長谷川等伯筆/六曲屏風〉 - 国指定文化財等データベース( 文化庁 )
長谷川等伯 松林図屏風 展示予定
長谷川等伯、伊藤若冲、葛飾北斎…和樂でも何度も取り上げてきた日本の絵師たちですが、実はまだまだ隠されてきた秘密がいっぱいあるのです。今回は長谷川等伯(はせがわとうはく)の人生と作品の秘密をご紹介します。 長谷川等伯の人生 悔しい思いを繰り返した青年時代 室町から桃山時代にかけて政治や文化の中心であった京では、漢画から始まった狩野派ややまと絵系の土佐派などの画派が絵画制作を一手に引き受けていました。 そんな時代に能登国七尾(のとのくにななお)に生まれた長谷川等伯は、絵仏師となり、30代前半に一念発起して京を目ざします。等伯は画力に並々ならぬ自信をもっていたのですが、絵の仕事を得たくても狩野派の厚い壁にことごとく跳ね返され、何度も砂を嚙むような思いを味わっています。 長谷川等伯「仏涅槃図」重文 1幅 絹本着色 桃山時代(16世紀)1000. 0×約600. 0㎝ 本法寺 表現の裏に見える狙い そんな状況に一矢報いるために等伯は戦略を練り、やがて大仕事を遂行するのです。「仏涅槃図」は名を成した後の作ですが、10mもの大きさや「白雪舟五代」の署名などに、雌伏(しふく)の時代に培った広報戦略の才がうかがわれます。 長谷川等伯、息子の死 等伯にとって不倶戴天(ふぐたいてん)の敵であり、目の上のたんこぶのような存在であった狩野派の頭領・永徳の訃報。それは等伯にとって、長年願い続けた打倒狩野派を現実のものとするチャンスでもありました。 等伯は京都画壇の逆風にさらされながら、わずかな人脈をフル活用して千利休や大徳寺の高僧らとの人脈を築き、絵師としての知名度を上げていきました。それに伴って長谷川派を形成し、いつか狩野派に取って代わることを願っていたのです。 そして、永徳の没した翌年、秀吉の子・鶴松の菩提を弔うために建てられた祥雲寺の障壁画の制作をまかせられ、順風満帆と思われたのですが、後継者と目していた長男・久蔵が早逝。派閥継続の夢ははかなく潰えました。 桜図壁貼付 長谷川久蔵 国宝 16世紀 紙本金地着色 4面 各172. 長谷川等伯 松林図屏風 展示予定. 5×139. 5cm 智積院 京都。まばゆい金地に今を盛りと咲き誇る桜。絢爛豪華な本作は、豊臣秀吉が、3歳で亡くなった嫡子の菩提寺・祥雲寺(現・智積院)のために、「松林図屛風」で名高い長谷川等伯の一門に命じた障壁画の1図で、息子の久蔵が描いた。秀吉と等伯、両者がそれぞれの息子のはかない人生と重ね合わせて見た桜なのかもしれない。 代表作品を紹介 画面をよーく見てみると…国宝の作品は下絵だった?
長谷川等伯 松林図屏風 製作年
長谷川等伯という画人が描いた 東京国立博物館(=東博)所蔵の 国宝「松林図屏風」は、 聞けば聞くほど謎めく絵だった。 お正月には、この絵を見ようと、 たくさんの人がやってくる。 でも、誰が何のために描かせたか、 どこの誰の手にあったものかさえ、 わかっていない‥‥。 これは「下絵」だという説もある。 そこで、東博の松嶋雅人先生に、 等伯の人物像をも交えながら、 いろいろと、 おもしろいお話をうかがいました。 担当は、ほぼ日奥野です。 >松嶋雅人さんプロフィール 松嶋雅人 (まつしままさと) 国立文化財機構文化財活用センター企画担当課長、東京国立博物館学芸研究部調査研究課絵画彫刻室研究員併任。専門は、日本絵画史。所属学会は美術史学会。 1966年6月、大阪市生まれ。1990年3月、金沢美術工芸大学卒業。1992年3月、金沢美術工芸大学修士課程修了。1997年3月、東京藝術大学大学院博士後期課程単位取得満期退学。東京藝術大学、武蔵野美術大学、法政大学非常勤講師後、1998年12月より東京国立博物館研究員。 主な著書に『日本の美術』No.
屏風は山のように見えるが・・・防風林だとしても、起伏があるものなのか。実際に見えた景色というより心象風景のようなものでは? 海岸から見ると昔は、山並みがあって、その先に 立山 が見えていた。あるいは、山の中腹から描いたかもしれないし、七尾城の上から見ても遠くに 立山 が見え、眼下に松の山並みが見えていたかもしれない。防風林というのも 桃山時代 にそういう考え方があったかどうか・・・・ 防風林は明治以降に作られているものが多い。あくまで個人的な見解になってしまうが、いろいろなところから見たものを組み合わせて描いているのでは? と思っている・・・ なんとなく、想像されたことが当たらずも遠からず・・・・ 現地に行ってみないとわからないこと。そして、現地に行ったとしても、わからないこと。当然、描かれた当時の姿とは違うわけですから、そこから、どれだけ想像力を働かせることができるか・・・・ ■屏風を見るベストポジションはどこ? この屏風を見るベストポジションはどこでしょうか? ▼左から? ▼右から ▼正面から? いろいろなところから見ていたら、この展示室の外に出て眺めている親子連れがいることに気づきました。そうです! 《松林図屏風》長谷川等伯|MUSEY[ミュージー]. ベストポジションは、その作品を見る展示空間内だけでなくその展示室の外に出た場所に、存在することもある。御舟の《炎舞》を見た時や、 地中美術館 でモネを見た時に経験していました。 展示室からでてとなりの展示室に移動してみました。 写真では、屏風がはっきり映っていませんが、えも言われぬ雰囲気を醸し出しているのです。この距離で鑑賞していた方に、「作品との距離で、全く印象が変わりますよね」と話かけたら「この作品は、近くで見る作品ではないです。これくらの距離でみないと本当のよさはわかりません・・・・」と語られていました。 一緒に見ていたお子さん、お父さんからいろいろな作品の見方を、伝授され身につけいるのだろうと思うと、うらやましくなりました。 この作品は、つぎはぎされていて、ジョイントがおかしいという話があり、本当のところはよくわからないようです。ただ、この距離で見ると、大きなカーブの連続性に、不自然さがあることがはっきり見える気がします。こちらの扇が、ここにきたらすっきりおさまるということが、とてもよくわかる気がしました。 ■《松林図屏風》解説パネル 最後に 学芸員 さんの解説です。自分が感じたこととどうでしょうか?